2022年5月8日

あだ名について

いつだったか、中高時代の友人に聞かれた。

「今まで聞いてみたかったけど、あだ名をつけたことに後悔はないわけ?」

と。

ある。
後悔というか、反省に近いものを、抱いてはいる。

私の友人には未だに「ケント」と呼ばれている女性がいる。
私がつけた。
察しの良い人ならもうお気づきかもしれないが、
かのマルチタレント、ケント・デリカットから名前を拝借している。
当時、中学1年生だったころの彼女はケント・デリカットに似ていたのだ。
同じクラブ(部活)に集まった私たちは皆一様にシャイで、私はその中でも率先して喋り、
いつだったか皆の緊張もほどけ仲良くなった時、彼女をケント、と呼んでみた。
すると意外にも周囲の賛同を得、彼女はケントと呼ばれ始めたのだった。

今なら思う。やってはいけない、と。

いくら似ているからって、
名前に「ケ」も「ン」も、ましてや「デリカット」も入っていない女子中学生を捕まえて、
「あんたは今日からケントだ」なんてたかだか同級生の身分で名付けるなど、言語道断だ。
その子の親が聞いたら、泣くというか戸惑うだろう。

しかし、私はその後も女子校においての生活で
「森」という名の女の子を「もりもり」と呼び、
「長嶋」という名の女の子を「ミスター」と呼び、
おかっぱに髪を切ってきた女の子を「こけし」と呼び、
頼りになる先輩を「母さん」と呼んで過ごした。

ひどい。と既に思っている方もいるだろうが、敢えて、言いたい。
当時の私に悪気はなかった。
むしろ良かれと思っていた。
悪気がないことこそ相手に不本意だった場合タチが悪いということも、
20代を後半にさしかかり知ってもいる。

今や、異名をもつ彼女達は高校を卒業し、方々で立派に働いている。
ケントは聞くところによると、現在保育園で勤めており、
ヒョウ柄の服なんかも好んで着ているらしいし、
おおぶりのメガネをかけていたのはいつの頃、ケント・デリカットの面影は今や微塵もない。
しかしコンタクトレンズをつけているにも関わらず、
彼女は未だに中高の友人から呼ばれているのだ。
「ケント」、と。

だけどあれは、高校2年か3年のときだっただろうか。

私は、ケントがクラスで「さおり」と呼ばれていることを噂で聞いた。

本人が言ったらしい。

「さおりって呼んで。」

と。

それを知った高校生の私は、胸を痛めた。
・・・嫌だったんだ。
と気づいたのだ。
本人が一度も嫌な素振りを見せたことはなかったし
恥ずかしそうにしていたことはあったが、
なにせ悪気はない=良かれと思ってしたことだったので、
本人が嫌などとは考えもしていなかった。
しかし、彼女も言うのが遅かった。
約5年間、学校生活を共に過ごした彼女は、
もはやTVで見るケント以上にケントだった。


ここでまた、敢えて言いたい。
私はあだ名が嫌いじゃない。
人間が一度戸籍に登場すれば、滅多なことで名前は変わらないだろう。
でも、もし、そこから違う名前が生まれたら?
その人の雰囲気を、名前より醸す言葉で呼ばれたら?
新たな可能性があらわれて、輝きを増す人はいないだろうか。
また、その周囲も、のぺーっとした顔の無口な人が「おかめさん」と呼ばれた瞬間、
話しかける気持ちが芽生えやしないだろうか。
渋い顔をして話しかけにくかった上司が「次郎長」と呼ばれていた瞬間、
閉じた心が開きやしないだろうか。

あだ名には、人と人をつなぐ、可能性があるのでは?

ちなみに私の中高でのあだ名は「ひろじ」である。
これも私がつけた。
当時放送されていたお笑い番組で、
関根勤さんが真似する大滝秀治さんが好きだったことによる。
ひでじ×ひろこ、で、ひろじ。
そう、あだ名に深い意味などない。

それは、呼ぶ/呼ばれるためのものだからだ。
深みが出るのは、呼んだ/呼ばれた後の話なのだ。




あだ名について 2012年 夏