2012年11月3日

ラジオが始まるその前に


この度、ラジオをすることになった。
ラジオをする、というのは可笑しいかもしれない。
ラジオのパーソナリティ的なことをする、と言った方がいいのか。
言っておくが、お喋りに自信はない。むしろ口を開けば反省をすることの方が多い。
だけどやることになった。いや、した。

「どうしてラジオをすることになったのですか?」

と会った人から聞かれる。
どうしてそんなことが気になるのですか?
と聞きたいが、先手必勝、先手打たれたが最後、何か答えが必要な気がする。
ここのところずっと、何故私は今ラジオなのかと、考えていた。
「ラジオやってみたら?」という声があがった、
ネット配信に詳しい協力者が現れた、どちらも大事な要因ではあるが、
だからといって腰があがるものでもないだろう。
運転する車のハンドルを握り、カーステレオのボリュームを上げる。

ラジオは、見えない。
ほとんど声と音だけの世界だ。
それは良くも悪くも不便で、
その分からなさは余白を生み出し、
その余白は誰でもなく視聴者の想像に身を委ねている。
だからこそ、人の泳げる可能性があると思った。

ラジオ。

私は、分かりやすいことを昔から敬遠してきたように思う。
おならプー!と言ってお尻をつきだすより、
うっかり出てしまった友達のおならを笑った。
笑点のテーマ曲を分かりやすく歌うより、
コンクール課題曲の替え歌を作り皆で歌った。
運動場から「シュート!シュート!」という声が絶え間なく聞こえていることについて文章を書き、友達の言い間違いを笑い、授業中4コマ漫画を書いて怒られ、本気のラブレターを友達と交換し、台本を書き、クラス全員に役や係をふり分け、全校の前で発表した。
全ては日常に関わる、あるいは日常から派生したただのコメディだった。

繰り返されて無駄のないフォルムも美しいが、
未完成のまま飛び出して出た汗も輝く。

スーパーから出てきた主婦がはまっているソリティアについて。
口を開けばダイエット宣言の友人について。
美味しいコーヒーを入れる喫茶店店主がハマっている焼魚について。
昔の小さな失敗を抱いている建築家について。

何でも簡単に情報が手に入るように感じられる今、
見落としがちになってしまうものもあると思う。
それは時に想像力であり、時に人の弱さでありカッコ悪さであり、
時には底力であり、時には無駄なものである。
毎日にこそ輝く地味な表情を、
人の不器用さを私は愛しいと思う。
美しくなくていい。立派である必要もない。
少しつまずいて笑った時の笑顔のようなやり取りが、
今だからこそ大事なような気がしていたのだ。

今日から、浜口寛子のラジオが、少しずつ、始まります。