2019年4月14日

お別れ会症候群

 

友人からメールがくる。
「浜ちゃん、いつまで東京いるの?」

「4月いっぱいですよ」
と返す。

「そっか。もうすぐじゃん。あいてる日曜ある?」
と返事がくる。

「×日ですかね!」
と返す。

「そっか!みんなに声かけてみるね。」
と返事がくる。

それから、気持ちのざわざわが始まる。
どうしよう、みんな、私のために、集まってくれようとしている。
ざわざわが止まらない。

同じ友人から新たにメールがくる。
「俺の夢は浜ちゃんとカラオケに行くことなんだけど、やだ?」

「もちろんいいですよ!

 心をこめて歌いますね。」
と返す。

その間も心のざわざわは起こったままだ。
みんな、私のために、
お別れ会を。

どうしよう。

小学1年生のとき、初めて(自分の)誕生日会を開いてもらった。
翌日、学校に行くと、友人たちがゴム跳びをやっていて、
「入れて〜」
とかけよったら、皆が鬼の形相で、
「寛子ちゃん昨日えらそうやったき、入れちゃらん」
と言った。えらそうだったから、ゴム跳びに入れてもらえないそうだ。
どうして、ただ誕生日会だっただけなのに。
母が唐揚げやその他皆の喜びそうなものをたくさん用意していたはずなのに。
私が誰かに命令したり、王様ゲームで自分だけ王様になるなんてこともしていないのに。
そもそも王様ゲームをしていないのに。
「ごめんね」
私はすぐに謝ってゴム跳びに参加した。
だけど今もその違和感や緊張が、コーヒーに入れすぎた砂糖みたいにだらりと残っている。
だからだろうか。

自分が中心の何かは
いつも以上に約束のリスクが大きい。
当日の欠席は絶対にゆるされない。



時間が経つごとに、4月、やることが案外多いことにも気づく。
こんな中、果たして私は私のお別れ会に参加することができるのか。
すごい心配が募る。
そんな中、メッセージ性の強い写真展を見たりして情緒が乱れる。
メッセージ性の強い写真展は生や死を深いところまで観察する。
私は、お別れ会を・・・。
みなさんのスケジュールもあるだろうし・・・。

ざわ
  ざわ


メッセージ性の強い写真展を見た夜、友人に電話をかける。
「ちょっと実は今こんなことやあんなことをやってまして、
 あとは、やっぱり寂しすぎるから、×日、ごめんなさい、難しそうです。」

「そっかそっか、じゃあやめといた方がいいね。オッケー!」

やさしい。。
なんていい友達をもったんだ、私。

その夜は、なかなか眠れなかった。
メッセージ性の強い写真展を見たことも関係していると思う。

翌日。

断ったお別れ会が
頭の中から離れなくなる。
せっかく企画してくれようとしたものを
本当に断ってよかったのか、質問に質問を重ねる。
スパークリングワインの触れ合う音や
友人たちの必要以上の歓談や笑い声が
頭の中で二日酔いみたいにこだまする。
断ったパーティーは永遠だ。

「そうだ、あの人の夢を叶えると思えばいいんだ」

数日後、私はひらめく。
毎日断ったお別れ会が頭の中で開かれて困っている。

「友人のカラオケの夢を叶える会」

そう思えば俄然、参加の意欲が湧いてきた。
そうだ、友人の夢を叶える会。なんて素敵なんだ。
私は立ち上がりすぐに、友人が声をかけたであろうそのまた友人たちに、
メール、ライン、メッセージ、ありとあらゆる手段を使って連絡をする。
「今週の日曜日、あいてますか」

「それ、浜ちゃんカラオケ、なくなった日やろ」
「日曜、△君からご飯とカラオケ誘われてそして中止との連絡が立て続けであったよ」

「その中止のすべては、私が言い出したことです」

私は中止の中止をここに高く掲げる。
みなさんの予定を、満を持して抑える。

一人の友人はこう教えてくれた。

「△くんから、おすすめのカラオケ屋さんあるかって聞かれたよ」

カラオケ屋まで調べてくれていた。
私はためらいなく、自分を責める。
そうして皆のスケジュールを確認した夜、意を決して、
最初の友人に、電話をかけた。

「私、△さんの夢を叶えたい」

「え、そーなの? いいの?」

「うん、お別れ会じゃないと思ったら、全然大丈夫です」

「え、俺、お別れ会なんて言った?
 お別れ会なんてつもりさらさらないよ。まだ二週間もあるじゃん。」

そうか、と思う。