2023年2月19日
# 私も
東京都現代美術館で開催されていた、
ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ「柔らかな舞台」に4回行った。
4回行ったのは何度も繰り返しというより単に集中力がもたないため
1回につき2〜3作品しか通して見れなかったためで、いやそんなことより
見た作品の中に「オブサダ」*というのがあり、映画大学の学生や卒業生、プロの撮影クルーら8名の女性たちが、撮影をしながら、あるいは協働作業をしながら、様々なシーンで話し合う。
「怒鳴られると踏み込まれたと感じる。」
「いつも社会との関わり方に自信がもてなかった。」
「女の子は自分を低く見積もり、不必要に勉強をしすぎる。」
そして映像の中で、カメラを構えているはずの人が話し出し、
カメラを向けられている人がこちらを振り返る。
「怒鳴られると安心する人もいる」
「自分で考えずにすむ」
「自主性も捨てられる」
「判断しなくていいから」
「慣れているから」
その作品を見ていて、
ふと気づいた。
わたしは #me,too がこわい
ある年から流行りはじめた運動を、
私は人から聞いて知ったが、今ひとつピンとこなかった。
「え、今、me,too運動って、知らないの?」
見ると、差別や暴力を受けたと感じたことのある女性が、自分の体験談などとともにハッシュタグをつけて意見を表明する、というものらしい。
その時はなんとなく変な違和感を感じて放っておいたのが、
今、それを こわかった とわかった。
映像の中の言葉は私がその場で走り書きしたものだし完全ではないが、
映像の中で女性たちは誰かが発したことに「でも、それは、」
と異論や疑問を呈する場面もあった。
そしてそれに同じ人や別の人が何かを考えて答える。
#me,too にはふしぎな勢いがある。
日本語に置きかえたら「私も。」私もそう思ってました。
誰かが言って、そこに乗っかる「私も。」
その流れは誰かがトイレに行くと言ったら私も行く。
女子特有の連れ立って行くかたまり感。
もちろん「問題」は提起がなければ発展もないという
ひとつの流れが存在するとは知っているが、
この、「1」があってそこに#me,tooとさも理由のありそうな大量のものが乗っかる、
そのパワーには平和より戦いを感じてしまうのは私だけだろうか。
私にも少なからず"性"を元にあやしい対応や攻撃を受けたことはあるので、
怒りに理解がないわけではないけれど、
怒りを怒りのまま団体性にしたところでそれは戦争となんら違いはないのではないかとも思う。
怒りが大きな渦になってしまっては暴力になりはしまいか。
だから何ができるかってそれは大きな話題だし別の話な気もするから
遠慮なく逃げます。
私は自分で考えたり、時には動いたり、動かなかったりするくらいしかわからない。
でも自分で考えたり、その心を癒したり、誰かと話したりすることは決して無駄なことではないと思う。
今回の展示「柔らかな舞台」のためにつくられた書籍の冒頭で、
東京都現代美術館学芸員・崔敬華氏が書いていた。
“ (「オブサダ」を含む)これらの作品では、女性の文化生産者や研究者たちが、音楽や詩や対話を通じて自らのアイデンティティと内に抱えた脆弱性を問い直し、自己の主観性を表現する言語をともに模索する。”
Me, Tooにたりないのは脆弱性だ。あるいは、脆弱性をよしとしないその雰囲気。
(2023年2月)
*「オブサダ(obsada)」は、ポーランド語で「キャスト」、「共同作業」、「植物を植える」など複数の意味をもつ。[展覧会パンフレットより]