2020年8月3日

ある日の恋人

 恋人の家には、とある山の上に初めて山小屋ができるまでの記録を綴った写真集があり、二人でそれを見ていた。私たちの暮らす平地から離れた、高い高い山の上で、木が運ばれたり、木が組まれたり、人が協力したり、少しずつ小屋ができ、山小屋として機能していくまでの記録。その本は、山小屋の完成に向け、あらゆる章が時期ごとに分けて区切られていた。前書きのようなプロローグを越え、序盤のページをめくり、章の題字を私はなぜか声に出して読んだ「そうめい期」。
その瞬間、恋人の顔が瞬時に硬くこわばった。「・・・れいめい期、だよ」。
“黎明期”。

今まで穏やかだった彼の顔は、困ったという文字を顔にしたらこんな風になるだろうなという表情だった。「あ、そうなんだ。れいめいって読むんだ。」もちろん私は恥ずかしかったが仕方ない。実は漢字は得意じゃないのだ。そんなこともあるだろうと思って次のページをめくった。そのあと、山小屋はいろんなことがおきながらも順調につくりあげられていった。ぶじ立派な山小屋が完成した本を閉じ、私はなにをしていたのだったか、たしかお風呂を入れに行ったのだったか、恋人は携帯を眺めていた。さらに時間が経った。ふと恋人が携帯から顔を上げ、口を開いた。
「そうめい期って間違える人、けっこういるみたいだよ。」
そうめい期とれいめい期を携帯で調べていた。
フォロー、だった。
それだけ私が恥ずかしい思いをしたと思ったのだと思う。
「そうなんだね。」と私は答えた。
今、一人で平らな家にいて、いつかの恋人の優しさを思う。

(2020年6月・書)モレスキンノート